【お問い合わせ先】
一般社団法人読み書き配慮
〒169-0072 東京都新宿区大久保3-14-4毎日新聞社早稲田別館5階
あるよ相談についてお問い合わせ
その他サービスのお問い合わせ
【米田和子先生プロフィール】 NPO法人ラヴィータ研究所理事長、子育てサロンの運営とペアレントトレーニングで保護者支援を、巡回相談とティーチャーズトレーニングで教員支援をおこなっている。就労移行支援事業所クロスジョブ理事他、教員や保護者からの相談を受けるなど日々活躍中。」
菊田 読み書き配慮ではこの秋からペアレントトレーニングを始めます。近年、改めて注目されているペアレントトレーニングは、応用行動分析理論(ABA)を基にしています。応用 行動分析(ABA)とは、行動の前後の環境を操作して 良い行動を増やしたり、不適切な行動を減らしたりする方法です。このテクニックを、日々の子育ての中で実践していくには練習が必要です。それがペアレントトレーニングです。
読み書き配慮のペアトレは、長年大阪でペアトレの実践を積み重ねて来られた米田和子先生にご指導をいただいています。
今日はその米田先生に、ペアトレの魅力についてお話を伺いたいと思います。
半生を聴く
菊田 まずは先生、ここに至るまでの先生の半生をお聞かせいただけますか。先生がなぜこの分野に力を尽くされているのか、なぜそんなに多岐にわたってご活躍されているのか。笑。
米田 はい。半生といっても、もう70年経ってますけれども。笑。
まずは小学校の教員として、34年間。半分が通常の学級、半分が支援学級と通級指導ということで関わってきました。大学時代4年間、就学免除という制度で、学校に行けなかったり、あるいは遅れたりしている、重度の障害のある子供達のボランティア活動をしていたので、通常の学級でも必ずと言っていいほど、支援学級の子供たちが在籍する学級で通常の担任をしてきました。
その後、家族の事情で5年早く教員を辞めて、仕事の延長でこのNPO法人ラヴィータ研究所を立ち上げ、保護者支援と先生方の支援を続けてきました。
その間に、すぐ近所にあるプール学院大学が、文科省から援助を受けて発達障害の学生支援のプログラムを展開するという取り組みを始めました。それで、たまたま近くにいた私が、府立大学の里見恵子先生の関係もあって2年間行かせていただいて。
その時に文科省のGP(特色ある大学教育支援プログラムGood Practice)があったのは、信州大学、富山大学、東北公益文科大学、プール学院大学4つでした。当時、発達障害の学生さんというのは、やっぱり増えてきてるんじゃないかということで、支援室を設けて,そこで支援を始めるお手伝いに入りました。
信州大学の高橋知音先生とか、あるいは富山大学の西村優紀美先生とか、1年に何回か集まって講演にも来ていただいたりして、大学の支援をやりました。
その大学の支援の延長で、就労もやっています。今私が理事をしている堺の就労移行支援事業クロスジョブと連携を取って、大学を卒業した人を就労移行支援につなぐとか、あるいは就労移行支援事業所と連携して在学中から移行支援を受けるといった形で、大学を卒業したらすぐに障害者枠あるいは一般就労という形でスムーズに就職につないでいけるプログラムを作っていっています。
34年間の教員生活の中で、通常の学級で担任をしているときに、通常の中でうまくいかない子供たちっていうのが結構いるのがなぜかと取り組みを考えていました。そこで「LD(Learning Disability) 学習障害」という言葉に出会ったんです。ちょうど30年ほど前ですけれども。そこから堺の先生たちと一緒に、「堺LD研究会」というのを立ち上げました。同時に私自身の仮死出産だった末の子供が5歳くらいの時に、LDという話が学校現場に出るようになって。それで「どうもやっぱり、自分の子供もLDの可能性あるよね」ということで、研究会を立ち上げたり、それと同時に親の会を立ち上げたりして活動してきました。
その頃、日本LD学会の大阪大会がありました。28年ほど前です。先ほどお話しした大阪府立大学の里見先生と繋がったのはその時です。先生方の研究会と親の会とが連携して動いていくというシステムを作ったんです。研究会の先生方としては、研究だけではなく実践活動としてLDの子供たちに月一回、ソーシャルスキルトレーニングをやっていこうということになりました。それで、親の会の子供たちがそこへ参加するという取り組みをずっと続けてきたんです。その過程の中では、日本LD学会で日本ソーシャルスキルの発表をしたり、あるいはクラスの中でLD、アスペルガーのお子さんを受け入れて、それを発表したりとか、そんな形で活動を続けてくる中で、日本LD学会での特別教育支援士養成に関わっていくことになりました。
菊田 それがS.E.N.S(特別支援教育士)ですよね。
米田 はい、そうですね。堺の先生方と特別支援教育士の養成に10年ほど関わらせていただいて。その途中で大阪S.E.N.S支部会を作ってきました。
菊田 先生がその時に、ご指導なさっていた方達っていうのが、いまの大阪の先生方の研究を支えているという風に伺いました。
米田 そうですね。笑。だから最初は堺から始めて、あとは近隣の先生方が「うちも!うちも!研究会を作るから来てくれ!」と言われて、堺を中心とした大阪全域で研究会の立ち上げに関わったという感じです。そうなってきたら、もう「堺だけではなく大阪全域で作ろう」ということになって、大阪LD・ADHD研究会を立ち上げました。それが、のちにLD学会のS.E.N.S大阪支部会に移行していったという感じです。なので、大阪の支部会の名簿を作って、立ち上げ全部やりました!笑。
菊田 へぇー、すごいパワー!
米田 いえいえ。笑。私は自分1人でやってるのが大変となったら、もうどんどん次の組織を作る。作ってはまた次のを作って。という感じで。笑。
菊田 LD親の会の井上代表に聞いたことがあります。米田先生は名誉に固執しない方で、作ったらもうそこの名誉なんかいらないってことで、どんどん次を立ち上げられる人だって。
米田 振り返れば「私がやってきたことなんか〜」と思いますが。そんな感じです。笑。
菊田 いや。素敵です。
米田 「何が一番必要なことなのか?」とは考えながら来たのかなとは思ってます。私は自分の娘のことがあったので、教員でありながら、親の会もやってきたんですね。5年間ずっと事務局で会報を作ったりして。いろんな取り組みをしました。
娘は仮死出産だったので、私としては最初から「支援学級?この子は一筋縄ではいかないだろう」という思いを持ちながらきたんです。何がどうなるかが分からなかった。娘が5歳の時に、LDという言葉が学校の教育現場で言われるようになって、「ひょっとしてそうなのかな」というところから勉強を始めたんです。最初は大阪の方でもLDに関しての研究ってのはほとんどなくて、竹田契一先生が宝塚のロータリーで親と教員向けに講演会をやってらっしゃったんですね。そこが唯一勉強の場でした。あと、当時はまだ特別教育支援士ではなかったので、LD教育士という資格で、夏に成蹊大学の研修を受けていたんです。だから、最初は東京まで通って勉強してました。休みの時に。いま思い出すとね。笑。
菊田 へぇー!それはいつ頃ですか?
米田 何年くらい前かな。LD学会の大阪大会のあとです。それで、本格的に動き出したのは、娘が小学校3年生くらいの時ですね。
実はその頃、同居していた母親が大病をしてバタバタしてまして。主人は夜間の高校の教員だったので、全然余裕がなくて。親の会を作ったのも日曜日だけの動きだったので、研究会は土曜日で。あの頃はもうどんな生活をしていたのか。笑。思い出せません。笑。
菊田 うわぁ、先生、猛烈に忙しかったでしょうね。
米田 そうですね。休みなんてなかったですね。うん。
家庭の方では、娘が小学校、中学校、高校、大学とLDの部分と不注意の部分とを持ちながら通いました。私も担任の先生には「こういう(特性の)ところがあるので、よろしくお願いします」とお願いして、小学校に入る時は、「この子が通常の学級の教室でもう無理!となれば、支援学級も考えます。まあ楽しく行っているうちはお願いします。」と最初から言いに行きました。小学校3年生くらいの時に「もうダメかな」と思ったこともありましたが、なんかクリアしていくんです。笑。
当時はいじめもありました。中学校が一番しんどかったです。いじめの標的になってしまって。先生といじめたお子さんの親と話をしたり。色々ありました。
当時、私の研究会活動として、親の活動のSST教室を作っていました。娘も小学校5年生くらいからそこに月一回くらい通っていました。中学校も、それがあったから何か救われていたって言うか。むしろそこに行ったら、私たちよりしんどい不登校の子もいるのがわかって、「じゃあ、がんばろう」という感じでやってくれたかなぁって思いますね。それで高校、大学くらいまで通ったかな。
学力の方は低空飛行で。視覚認知、空間認知の弱さがあって、LDの書きの問題があったんですけれども、それに対してどうするかっていうのは、本当に方法がなくて。
菊田 (ICT)機器がなかった頃ですもんね。
米田 そう。ほんとに全然方法がなくて。親としてできる事は、「もうこれ以上できないことを追い込まない」ということ。笑。だから5年生の担任の先生が「ここ、もうちょっとやったらできるんですけど」なんて言っても「いや、これで精一杯なんで、もうこれ以上やらないでください。別の問題が起きるんで」と言ってお願いしました。笑。
菊田 そう!そもそもその他の課題が多いだから、できないことを強いられると別の問題が起きるんですよね。笑。もう家庭がシッチャカメッチャカなことになっていく。うちもそうでした。笑。
米田 小学校6年生の時の担任の先生は、私と同じ職場にいた先生でもあり、すごく理解があって。良いクラス経営もしてくださいました。授業参観の時、うちの子供の問題を取り上げて、みんなで話し合いをなんてこともやってくれて。笑。
米田 長女と一緒に観に行きましたけどね。笑。
菊田 へぇー。すごーい。問題をオープンにするって「理解」という意味で本当に大事なことなんだけれど、担任の先生には勇気のいることでもあるでしょうね。
米田 そうだったと思いますね。中学校1年生の時にはさっき話したようにいじめの問題がありました。でも2年、3年と担任してくださった先生がすごく理解があって。その先生は、その後S.E.N.Sの資格も取って、私の研究活動のところにも一緒に来てくださって。そういう先生でした。
こんなふうに、出会った先生が、けっこう一生懸命勉強してくださるという感じもありましたね。
菊田 米田先生が感化されるんですね。笑。
米田 いやいやいや。笑。「お願いします」と言ってただけなんですけどね。
***=====***=====***
【予告】
次回は、12月1日公開です。
関連記事
【お問い合わせ先】
一般社団法人読み書き配慮
〒169-0072 東京都新宿区大久保3-14-4毎日新聞社早稲田別館5階
あるよ相談についてお問い合わせ
その他サービスのお問い合わせ