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レアな校長先生、誕生秘話
今回は、長年、特別支援教育に携わられた杉並区立杉並第四小学校の高橋浩平校長先生に、小学校での特別支援のあり方とLDを取り巻く環境についてお話を伺いました。
菊田 先生のバックグランドを教えていただけますか。
高橋 僕は教員になってから、ここが4校目なんですよ。1校目が7年。2校目が14年。3校目で副校長になってから5年。今、校長になって5年目、4校目なんです。担任として21年間やっていたんですけど、21年間すべて特別支援学級の担任だったので、その後に管理職になったということで、おそらくとてもレアな校長だと思います。
菊田 そうなんですか!
高橋 もともと、教員になったのが29歳の時なので、遅いんですが、大学に2校ぐらい行っていたので、最後に卒業したのが埼玉大学の養護学校教員養成課程小学部定員10名というところでした。
なんでそんなことになったのかと言うと、もともと、うちの親父が医者で、開業医ではなくて勤務医だったから、跡を継ぐということではなかったのだけれど、でも、なんとなく周りが「だったらお父さんの跡を継いでお医者さんでしょう」という感じだったので、「それも悪くないかな」という部分でやっていたら、浪人をしちゃいましてね。もう受け継ぐのはダメかなと思って、中学校の免許でも取って先生やろうかなと思いました。そこで、今度は日大の文理学部に行きました。そうしたら、すごいマンモス授業で、嫌気がさしてしまい、入学して2週間ぐらいで学校に行かなくなっちゃいました。その頃、少年サッカーのコーチとかもやっていたから、地元で小学生の子ども相手に塾とかもやっていたので、じゃあ小学校の教員免許を取って、小学校に行こうと思い立ちまして。
でも、マンモス授業は嫌だし、できるだけ定員の少ないところに行こうと思って。そこで、東京学芸大学が一番近かったけど、東京学芸大学には、僕の高校の後輩が大学院にいっぱいいるから、そういうところはあんまり行きたくないかなあと。自宅から通える国立を探した時に、埼玉大学が見つかった。定員が少ないところがいいなと思って決めたところが、養護学校の教員養成課程の小学部10人というところでした。入るまで養護学校ってなんなのか、全然知らなくて、保健の先生は養護教諭というから、たぶん養護教諭の免許も一緒に取れるのかなぁ、ぐらいのつもりで行ったら、「ああっ!障害児の学校なの!」って。
菊田 知らずに特別支援教育、当時は特殊教育って呼んでましたけど、その道に進まれたと。
高橋 その頃、うちの弟は慶応大学の商学部にいたんだけれど、大学時代に障害児のボランティアをやっていて、障害児のキャンプとかもやっていたこともあり、ボランティアが足りないから、兄貴来い、来いと言われてて、「何言ってんだ、俺は健常児で手一杯なんだ!」って言ったけど、弟に「そういう学校に行ったんだから、兄貴来るべきだ!」と押し切られて、「確かにそうだよな。」ということで、障害児のボランティアも始めて、大学4年間、いわゆる障害児教育を勉強してきました。
障害児のキャンプも大学4年間、教員になってからも2年ぐらいやっていたのですが、それは120人ぐらいの自閉症の子とかダウン症の子とかをキャンプに連れて行くんです。あと月一回の定例活動とかもやっていました。
菊田 YMCAか何かですか?
高橋 YMCAです。今は無いけどね。青空という。
菊田 ああ!やっていました。たぶんそれを引き継いで新宿のYMCAが青空というのをやっていて、私も子どもをそこに入れたんですもの。その青空に行かせたの。7,8歳の頃だったかな。2010年ごろ。
高橋 ぼくらがちょうどやっていたのは、1985年から89年代にかけて、やっていたんだけど、まぁ、とにかく、ぼくが最初入ったころは大変だったんですよ。子どもの数は多いわ、ボランティアの数は集まらないわ、で。
当時の(YMCAの)ディレクターがやっぱり大規模で全体で動くのは違うんじゃないかって、自閉症の子がいっぱいいて、根本的に考え方を変えようということになり、ぼくらがやっていたのは、5人ぐらいの障害児のメンバーに、3人ぐらいリーダーを付けて、このグループで活動する。そうしたら、結構スムーズに活動できるんですよ。
菊田 息子が参加した2010年もそんな感じでした。もう少し大人が多かったかな。やっぱり、大人が多い方がうまく行くものですか?
高橋 120人のキャンプなんだけど、8人ぐらいのグループが12~14グループぐらいできるわけです。3泊のキャンプで、基本的に食事の時間は決めてあるけど、その他の時間はお散歩行ってもいいし、あるグループは調理実習をしたり、その子たちのニーズに合わせてやる、みたいなことでやっていたら、そこらへんはスムーズだよね。というのが、わかった。そういうことをずっとやっていたので、 対応が肌感覚で身についたところはあります。
菊田 リーダーというのは、息子のころもずいぶん若いという印象でしたが、大学生ボランティアとかですか?
高橋 そうそう。大学後半、一緒にやっていたディレクターも優秀な人で、YMCAで障害児理解の講座をやるって言って、講座の最後の集大成がうちのキャンプだから、と。
そのころ、いろいろ勉強もさせてもらって、あの当時、佐々木正美先生とか長瀬又男先生(学芸大で自閉症の研究をやっていた先生)とか、わりと錚々たるメンバーを呼んで講義を受けて最後のまとめがキャンプみたいな流れでやっていました。
そういうのがバックボーンになっていて、大学4年生の時に、ゼミの指導教官にどうせお前、教員試験受からないから大学院行けとか言われたんだけど、いやいや、受けてみないとわからないじゃないかと。
もともと同級生は養護学校養成課程なので、ほとんど特別支援学校へ行って先生やるのが一般的なんだけど、大学時代にいわゆる特別支援学級の先生の話を聞く機会があって、その先生が「私が学校にいた時は、特別支援学級は陽の当たる一番いいところにあったけれど、私が出た途端に一番隅っこに追いやられた」とか、そういう話を聞いて、「いやいや、特別支援学級って日々戦いなんだ」と思って、だから、楽しいなっていうのがあって、「心障学級(特別支援学級)やらせてください!」つて言って、特別支援学級の担任になったんですよ。
菊田 理不尽に屈しないタイプですね、反骨精神(笑)。それにしても一流の教授陣ですよね。私から見れば、自閉症研究の神様みたいな教授たちの元で、実践研修と理論を究めてきた学生時代。
高橋 まあね。最後の大学だったから、ちゃんと勉強してからでないとやばいよね、と思って、それこそ年も取っていたから、1年の時から3、4年生のゼミとかに参加させてもらえたし、すごくそういう意味では4年間大変勉強させてもらったかなぁ。
採用試験は、小学校で受けて面接で「心障学級(特別支援学級)行きたいんです」と言って、最初に行ったのが調布の学校だった。調布市立第一小学校のひまわり学級、子どもが20人ぐらいいました。
菊田 赴任当時の特殊学級ですね。今は特別支援学級と呼びますが、地域の学校の中にある障害のある子供たちのための学級。
高橋 当時、一応調布には3つ(滝坂、染地、第一)支援学級があった。そこで教員になってすぐに言われたのが、通常学級の先生から、「高橋先生、心障学級が第一希望だったの?」と聞かれて、「そうですよ。」と言うと、珍しいみたいな感じだったね。
その当時、男の教員を取りたいんだけれど、枠が無い、だからとりあえず3年辛抱してって言って、支援級で採用して、通常級に戻すみたいな感じだった。
ちょうどまさに僕の前々任者がそれで1年支援級をやって、それから通常の担任をやっていました。それが平成元年なんですね。初任者研修の第一期ということで、調布には初任者、つまり新卒採用が15人いたんだけれど、そのうち10人が洋上研修に行きました。
菊田 特学第一希望の先生は珍しかったってことですね。ところで洋上研修ってなんですか?
高橋 洋上研修ってね、初任者研修が始まった年に文科省が肝いりで10泊11日の船上での研修会というのがあったけど、僕は校長に呼ばれて、「こういうのがあるけどぜひ行かないか」と言われたけど、移動教室と重なっていたから、「ぼくは行きません」と言って断っちゃった。
菊田 担任する子供達の移動教室を優先して、先生は行かなかったんですね。
高橋 結局、調布のひまわり学級に7年いました。6年目に校長に「どうする?」と聞かれて、「あと1年は残りたいんですけど」と言ったら、その校長も次の年退職だったから、「僕と一緒に出ましょう」ということになって、7年目に「また残りたい」と言いに行こうと思っていたら、その校長に「高橋さんどこに行きたい?」と聞かれたので、ああ、残す気は無いんだなと思って。特別支援学級の諸先輩方からは「多摩地区からはでるな!」みたいなことを言われて、「三鷹とかここしか書いていませんよ」と言ったんだけど、蓋開けたら世田谷だった。
結局、世田谷の烏山小学校に行ったんですけど、最寄り駅が仙川で、そこ世田谷区じゃなくて調布市なんだよね。
教頭先生には「沿線沿いだから」と言われていたけど、面接に行ったら、そこの校長に「希望じゃなかったんだよね?」と言われて。「いえいえ、呼ばれたところが僕の学校だと思っているので気にしないでください」と言って、世田谷で校長やっている知り合いがいたから、「烏山に決まりました!」と言ったら、「あそこね、校長変わるよ」と言われて、「えっ!!!」となって。
烏山に行った当時は、子どもは7人だったんですよ。7人の学級に担任ふたり。20人の子供に対して教員4人でやっていた前任校からすると少なくてね。
菊田 異動先の校長に決意を述べて見せたのに、校長交代と。それはずっこける(笑)!でもまあ、特学自体は子供7人に教員2人で、手厚い教育が可能っていうわけですよね。
高橋 最初に行ったときは、1週間ぐらい授業を見せてくださいと言ったんだけど、すぐにがまんできなくなっちゃって。
朝登校してくると和室に布団敷いて寝ている子がいたりね。
10時半ぐらいにならないと登校してこない子とかね。ほっとけない。
その担任の先生に、「なぜあの子は布団を敷いて寝ているんですか?」と聞いたら、
「おかしいわよね。」と言うんだよ。
「先生も、おかしいと思うんだったらやめましょうよ」と。
それで、「はいはい、起きて!」と朝の会に出させて、遅れてくる子には、「お母さん、なんとか頑張って、9時には登校させてください!」と頼んで、お母さんもがんばって登校させてくれたら、「○○くん、はじめて朝の会に参加しました!拍手!!」「じゃあ、ファイル持ってきて!」と言ったら、ファイルが無い。朝の会に参加したことがないから、ファイルも作ってなかったんだよね。
またね、週に一回の全校朝会で、つくし学級(支援学級)も一緒に並ぶんだけど、朝、全校朝会の時間なのに、ひとりも登校していないというのが2回あったんですよ。
1年目からそんな感じでしたが、教育の内容についてはなんかやりたい放題。2年目は子ども11人入ってきて、めでたく3担任になった。
僕のその頃の人生設計は、学級を2学級にして3担任にして、大学院に行こう!という計画を立てていたんだけれど、その3人目が問題教師だったから、主任が倒れちゃった。
その後、問題教師と対峙したり、担任が変わって、どんどん子どもの数が増えて行ったりして、6年たって、異動の年限がきて、「来年も残りたいんですけど。」と言ったら、校長さんが「高橋さん、無条件で3年残れる方法があるよ」というので、“それ乗った!”と返事をしたら、それが主幹制度だったんだよね。
菊田 それで主幹教諭になったんですね。校長や副校長を補佐するのが主幹教諭ですよね。校務の管理や教員の指導もする、リーダー的役割ですよね。
高橋 そうなんです。
主幹になった年、あの頃は教務主任もやらなくちゃいけなかったから、820人規模の烏山小学校で教務主任もやって、特別支援学級で担任をフルで、週26時間授業やって、昼休みと中休みは職員室に来て、通常学級の先生の相談にのれ、とか言われて、職員会議の司会は「全部先生がやって」と校長さんに言われて、全部やっていましたね。
あの頃、僕はあちこち行って、話をするときに「東京一忙しい主幹です」とよく言っていました。
菊田 教務主任っていうのは、時数を管理する人ですよね。学校は法令に基づいて授業時数が決められていて、これ間違っちゃうと大変なことになっちゃう。だから教務主任ってある意味、職人技って聞いたことがあります。主幹でフルで授業あって教務主任って、物すごく忙しいだろうって、想像できます。
高橋 僕は、そのころ「楽しくなければ学校じゃない」をモットーに学級経営をしていました。
特別支援学級と通常の学級の交流もやっていましたが、教務主任になったときに、昨年までは特別支援学級主任の高橋の提案だったのが、教務主任の高橋の提案になって、通常の学級の先生方の意識が全然変わったな、と感じることがありました。
運動会では、該当学年の通常の学級の演目に参加するほかに、学級の演目として、特別支援学級の子が交流級と一緒にダンスをしていました。これも最初は通常の子がいやがったり、ぎこちなかったりしたけれど、長年やっていると、通常学級の子たちの方から「つくしと一緒に踊りたい!」と言ってくるようになっていました。そうなると、もう大人が介在しなくてもよくなっていました。大人抜きでダンスができちゃう。運動会を見に来た指導主事が「これこそまさに交流ですね」いわれたりしていました。
次回は、「LDの支援」についてのお話です。
6月1日会員限定での公開です。どうぞお楽しみに。
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